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ヤマミヤアップデート

嘘は書かないつもり

卒論

昨年9月に卒業論文というものを書いた。

 

他学部の友人から聞いていた話と違って、

特に修正もないし、指導を受けることもなく、

なんなら2か月弱で書き上げた駄文に対してお褒めの言葉をいただき、

いかに自分の学部が平和的だったか再認識した。

温かく見守ってくれた教員の方々にはとても感謝しているが、

大量の文献を漁ることも、日々友人と頭を悩ませながら研究室でパソコンをタイプすることもせず、未だに少し寂しい思いがあるので、ここに記録として残しておく。

 

 

 

 

 

目次                      頁


第1章 はじめに                        2

第2章 本論 2
1ミルによる功利主義論と自由論
1.1.功利主義論
1.2.自由論

2.ミルの論に対する問題点と自らの考え 6
  2.1 問題提起
2.2功利主義と自由論
2.3規則功利主義
2.4選好功利主義と自由意思
2.5愚行権をどこまで認めるべきか
2.6トロリー問題
  2.7 変化する正義

第3章 結論                          15


参考文献                                 16

 

 

 

第一章 はじめに
今回このテーマで論文を書くにあたって、倫理学、とりわけ功利主義の思想の系譜を把握することが必要である。この論文で主に扱うのは、イギリスの哲学者ミル(1806~1873)や、ベンサム(1748~1832)である。彼らの名前を出すうえで外せないのが「功利主義」という考え方で、これは社会の幸福を最大にするためにはどうするべきかという問題に一つ道筋を提示したものである。私が数年前にこの理論に出会ったとき、それまでなんとなく持っていた、善い、悪いという判断基準がかなり明確化され、幸福な社会を目指すための方法が示されたように感じた。もしこの立場が正当なものなら、今後の人生でとるべき行動が分かってくるのではないだろうか。
 しかし調査を進めていく過程で、問題点も多く残っているということが分かってきた。ある一方から見ると正しいことが、他方から見ると害悪である場合もあるし、自分が信じてきた理論も、強力な反論によって覆されていることもあった。研究を続けるほど奥が見えてきて非常に深いテーマであることが分かったが、今回はそのテーマの論点を幅広くカバーするつもりで取り組んだ。

 

第二章 本論
1ミルによる功利主義論と自由論
1.1.功利主義論
ミルが最も重視していたものは、社会全体の幸福の総和である。「最大多数の最大幸福」と述べたベンサムを支持したように、ミルは、幸福が多く不幸が少ない世界を理想としていた。「『功利』または『最大幸福の原理』を道徳的行為の基礎として受け入れる信条にしたがえば、行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。」(ミル,1861,伊原訳,1967, p467)という言葉からも分かるように、ミルは快楽があり、苦痛がない状態にすることが、望ましい唯一のものであるという人生観や、望ましいものというのは、その中に含まれた快楽や、または快楽を増し苦痛を防ぐ手段として、望ましいのだという人生観を掲げている。ここでの「功利」という語が誤用されたため、かつて功利主義が非難されたのだとミルが述べているので、今一度この用語を定義しておく必要がある。「功利」とは「快楽そのもの―苦痛の回避を含む―」(ミル,伊原訳,p466)を意味し、さらに有用なものそのものを意味するのである。つまり、社会全体の幸福という目的のために快楽を増幅させるとともに不幸の不在を目指すこと自体を功利主義と呼ぶ。
ここで功利主義の考え方をより明確にするためにカントを引き合いに出すならば、彼は『道徳形而上学』で「汝の行動の準則が、すべての理性的存在によって法則として採用されるように行為せよ」と述べている。これはいわゆる「定言命法」と呼ばれる主張で、先天的に道徳の原理が我々に与えられていて、常に自らの理性が正しいとする行いをすべきだという意味である。この概念の中では、周りの幸福というよりも自分の理性が自らに課す義務を果たすことのみを重視し、それが普遍的な道徳観念になるように振る舞うことが求められている。「ここでは~することが正しい」や「~してあげたらこの人は喜ぶだろう」といった利己的な動機から行われる行動はすべて道徳的とは言えず、ただひたすらに理性が下す命令に忠実であることが正しいとされている。カントに言わせれば、「社会全体の幸福ため」である功利主義も道徳的ではないのである。ミルはカントに対しある種の批判を述べており、「カントが、この格言から現実的な道徳的義務をひきだすにあたって、すべての理性的存在が不道徳きわまる行為準則を採用することは背理であり論理的〔物理的とはいわないまでも〕にありえないことが示せないのは奇怪というほかない。」(ミル,伊原訳,p464)とカントの矛盾点を突いている。多くの人間の理性が下す命令が、例えば「どんなに困っている人でも助けてはならない。」であった場合でもそれに従うしかなく、その結果は誰も望まないものになることだけは明らかである。
カントとの対比の中で功利主義の概要が明確になってきたが、詳細を見ていくと意見が分かれる部分もある。ベンサムとミルは、すでに述べたように幸福の増大と不幸の不在を道徳的基盤として捉えていた点では共通だが、幸福に種類があるか否かという点で違う考えを持っていた。ミルは、幸福には上質なものとそうでないものがあるとし、より質の高い快楽を望ましいと述べている。例えば、プッシュピン遊びで得られるような単純な快楽よりも、詩の創作で得られる知的な喜びの方が高級で、質が高いとしている。なぜなら人間は動物よりも高尚な能力を持ち、食欲や睡眠欲などの肉体的な喜びだけでは満足できなくなるからである。有名な一説に、「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスのほうがよい。」(ミル,伊原訳,p470)というものがあるが、これはまさに快楽に質があることを端的に表した文であり、幸福にもレベルがあると認めていなかったベンサムとの相違が分かる部分である。それでは何を基準に快楽の質に優劣をつけるかというと、双方の快楽を味わったものが、道徳的な義務感などと関係なくはっきりと選び取る方はどちらか、という基準である。能力が高く、知的な者が選ぶ快楽こそ上質であり、愚か者やあるいは動物が感じている単調で短期的な快楽は低級である。彼らは主に肉体的快楽で満足しているが、知的で感受性や想像力が豊かな者は精神的快楽により大きな喜びを見出す。それは「主として永続性、安全性、低燃費性―つまり、内的本性よりも外的利点―で精神的な快楽のほうがすぐれている」(ミル,伊原訳,p463)からである。
ここでいくつかの疑問点が生まれてくる。頭がよく、感受性豊かな人も低級な快楽を求めることがあるがそれはなぜか。これはやはり快楽には高級も低級もなく個人の好みの問題ではないのか。これに対しミルは、人間は精神面の弱さから、害があると分かっていても手近な快楽に手を出すことがあるとし、優れた人間も場合によっては低級の快楽を望むことがあると認めながらも、やはり高級な快楽が優れていることには変わりないと述べている。両級の快楽を味わったものは、精神状態が安定してまともに判断できる状態であれば、自ら進んで低級なほうを選ぶ者はいないといってよい。また、満足と幸福を混同することによって誤解が生じるケースもあるという。ミルは、「感受能力の低いものは、それを十分満足させる機会にもっとも恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じうる」(ミル,伊原訳,p470)と述べ、満足と快楽をしっかり区別した上で、たとえ満足していなかろうと、感受能力が劣った存在になることを避けている。
では、なぜ家畜や愚か者として現状に満足するよりも、満足できないとしてもソクラテスでいたいと思うのか。それは、人間が「もっとも尊敬すべき感情につけられた名称だが、また同時に最も尊敬すべからざる感情」(ミル,伊原訳,p469)である「誇り」を持っているため言えるし、なによりも尊厳の感覚によるものだという。人間は誰しもこの感覚を持っていて、下劣な存在になりたくないという感情を引き起こす。
ここでミルが述べている下等な存在に身を落としたくないという論は、能力が高い者の目線からのものだろう。なぜなら彼自身がとても知的で高度な教育を受けているため、質の低い快楽と高い快楽の両方を味わっている可能性が高く、常に「主張の中でも両質の快楽を知っている者」を主語としているからだ。例えば彼の言う「馬鹿」や「のろま」の目線のだけで考えても、本当に高尚な存在よりも好ましくないのだろうか。このような疑問が生まれるが、後ほど詳しく述べることにして、功利主義の本質について書き進めていく。
功利主義の根幹となるのが、社会全体の幸福の総和という点である。行為者自身の幸福はそれほど重視されず、世間一般が受ける恩恵により重きを置いている。つまり、高い能力を持つ者は、その能力故に満たされないことがあるので他人よりいつも幸福であるかは疑問だが、その人の能力によって世間の人々が恩恵を受けているのは言うまでもないのである。上で、下劣な存在より高貴な人間の方がよいとしたが、これは高貴な人になればなるほど幸福であるという意味ではなく、そうなった方が社会全体として有益だということだ。
このような功利主義の特性に対し、「功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷ややかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しない」(ミル,伊原訳,p480)と批判する者がいるが、ミルは、これは功利主義に限った批判ではなく、なんらかの道徳基準を持つことへの批判としている。なぜなら、行為者の人間的資質が行為自体の正誤の判定基準にならないのは功利主義に限った話ではないからである。つまりどのような道徳基準においても、善い人が行えば善い行為、悪人が行ったら悪い行為、という決め方はされていない。むしろ、善い行為を行い、悪い行為をしない傾向にある人が善人という評価を受け、逆もまた然りである。一方でミルは、「功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり意識していない」(ミル,伊原訳,p481)という、功利主義はある種人間を機械的にするといった批判を受け入れつつも、これを過ちであるとし、同時的基準だけでなく、共感能力や芸術的感性を伸ばすことが必要だとしている。


1.2.自由論
 この章では、功利主義を理解するうえでも重要である「自由論」について述べる。ここでいう自由とは、誰もが自分の好き勝手な行動や発言をしてもいいというような意味での自由の話ではなく、市民的、または社会的自由のことである。ミルが言っているように「自由論」の目的は「強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、一つの非常に単純な原理を主張すること」(ミル, 186,早坂訳,p224)である。その原理は、「人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、政党に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危害の防止である。」(ミル,早坂約,p224)と述べられ、「危害原理」として知られている。また、この原理は功利主義を述べるうえでも根幹にある思想でもある。なぜなら功利主義の目指す社会全体の幸福のためには、個人の自由が阻害されず、それぞれの個性が発揮されることが重要だからある。もし個々人が政府や社会権力によって支配されていて、ある行動を意思に反して強制されているとしたら、それは幸福とはかけはなれた状態である。したがって、自由論は、人々の個性が生かされ、他人に危害を加えない限りそれが尊重される社会、しいては社会全体のための幸福を達成するための土台であると言える。また、当時のイギリスの社会情勢として、長期成長の真っ只中で政府の介入が求められていなかったということもあり、「支配者が社会に対してふるってもよい権力に、制限を設けること」(ミル,早坂訳,p216)が目指された。ミルがその目的のために何が必要で、我々はどう考えるべきと述べていたかを見ていく。
 ミルが生きた19世紀は、社会の権力で個人を押さえつける動きが増大していたこともあり、彼は自由の重要さを強く主張した。まずミルは、個人の自由の領域として①良心、思想と感情の自由、②嗜好と職業の自由、③個人の間の団結の自由、の3つを前提としている。①では、さまざまな問題に対して意見と感情の絶対的自由が保障されるとし、例えば本を出版する自由もここに含まれる。②、③に関しては言葉の通りに解釈して問題ないが、上記すべてにおいて、行為者が通常の成人としての判断能力があり、他人へ危害を加えることなく、さらに他人に強要されず自らの意思で動いていることが条件である。このように、社会権力は小さい方がよいと考えていたミルは、フランスの哲学者コントが、専制的な政治で個人を抑えることを目指していたことを批判的に述べている。
ミルは、代表的な自由の一つとして言論の自由を挙げている。民衆は意見の発表を抑えられるべきではなく、自由に発言や表現できる社会が好ましい。たとえ全ての人々が同意見で、ただ一人が異なる意見を持っていたとしてもそれを統制することは不当である。なぜなら、そのただ一人の意見が実は正しいものでその他の意見が誤っている可能性は0ではないし、もしそれが真理であった場合に社会が受ける損失はすさまじいものである。時代を振り返ると、今では考えられないような「常識」がまかり通っていた事例がいくつもある。「魔女狩り」や「禁酒法」などは、今であれば誤りであっただろうと言えるが、それを社会一般で行っていたことを考えると、今我々が当たり前だと思っていることを信じ続けるのではなくて、少数派であっても意見を聞く必要があると分かる。
また、例え少数派の意見が間違っていたとしても意見を述べることに価値はある。長い間当然だと考えられ、魔女狩りなどと違ってすべての人々が支持している考えだとしても、完璧ではないはずだ。それが異なる意見と比較されることで、さらなる真理に近づく可能性は大いにあるし、世間に受け入れられた真理であっても、幾度となく議論にさらされることでさらに強固な真理になる。異なる2つの意見がどちらも正しいときにも、開かれた議論は必要である。少数派の意見にも、ごくわずかかもしれないが、正しい部分が存在している場合がある。それが多数に支持されている意見の足りない部分を補うことで、お互いの真理を分かち合うことができる。つまりどんなに真理だと思われている説も、反論や異論と照らし合わし続けることで、より吟味されさらなる真理に近づくことになるのだ。ミルは、他の意見に耳を傾けながら開かれた議論をすることで、常に淘汰された社会を目指せると考えていたのである。
 言論の自由といっても、罵言や皮肉、人身攻撃については、穏健な議論と同じ扱いではならない。これらの「武器」は一般に、世間に受け入れられている側から、少数派に対して使われるときは「誠実な熱心さと正しい憤慨という賛辞を受けがち」(ミル,伊原訳,p277)であるが、逆に少数意見の側から支配的な意見に対して用いることは認められない。なぜなら、少数派は、「つとめておだやかな言葉を用い、最大の注意を払って不必要な刺激を避けることによってはじめてその発言の機会を得る」(ミル,早坂訳,p277)からである。これは容易にイメージできることで、支配的な側は、攻撃的な態度であっても、正しい意見を世間に広めているだけだと認識されるのに対し、少数派が攻撃的であると、たとえその意見の方がより真理に近いとしても、暴力的な反逆者というレッテルを張られるだろう。したがって、中傷的な言葉の使用が取り締まられるべきなのは、支配的な意見をもった方なのである。

2.ミルの論に対する問題点と自らの考え
 2.1 問題提起
ここまで「功利主義論」、「自由論」と、ミルの代表的な論について彼の論旨に沿って述べてきたが、ここからは主に私の見解と疑問点について論じていきたい。私は基本的に功利主義の考え方を支持しているが、それでもいくつかの点で再考の余地があるだろう。ミルが述べたように、快楽には質があり、高次の快楽と低次の快楽というような質があるという点に異論はないが、高次の快楽が常に幸福に直結するかと問われたらどうだろうか。決して「満足」と「幸福」を混合させているわけではなく、たとえ豚でなくソクラテスであっても、幸福のために低級の快楽を選ぶべき場合があるのではないだろうか。それはミルが述べているような、一時の性格の弱さから価値が低い善を選ばざるを得ないということよりも、むしろ進んで低級の快楽を選択した方が、幸福につながる場合である。どのような場合かというと、高い能力を持つ者が、求める快楽の質の高さ故になかなかそれにたどり着けないときだ。彼らは、豊かな感受性や高級な能力を存分に使えるときは、
非常に質の高い快楽を経験することができ、それは低い能力しか持っていない者では味わうことのできない高次元の幸福である。しかし、感受能力の低い者がそれを満たす機会に恵まれているのに対し、高尚な人物ほどそうではない。「高級な能力をもった人が幸福になるには、劣等者よりも多くのものがいるし、おそらくは苦悩により敏感であり、また必ずやより多くの点で苦悩を受けやすい」(ミル,伊原訳,p469)ので、ともすれば幸福を感じるために大きな苦悩を乗り越えなければいけないのだ。そのように、あまりにも苦悩が大きい場合は、下級な快楽でも相当な幸福に感じられるだろう。いつもは詩を作ることに喜びを感じる人物だとしても、全く詩が浮かばない状態で丸1週間過ごすよりは、例えそのうちの1時間でもプッシュピン遊びをした方が、その1週間の喜びの総和は大きいのではないだろうか。つまり高級な快楽が、永続性や安全性、低燃費性で優れているという点は正しいが、それが幸福に直結するわけではなく、うまく低級な快楽と付き合っていく方が幸福につながるのである。
これに対して「プッシュピン遊びはどう考えても詩をつくることよりも劣っていて、彼は下等な快楽に身を落としただけに過ぎない。」と反論する人がいるかもしれない。確かにプッシュピン遊びは詩の制作よりも下級な快楽であり、我々は常に高級で質の高い快楽を目指していくべきだ。しかし下級の快楽を選んだからと言ってそれは下等な生物に身を落としたことにはならない。なぜなら、どちらの快楽も味わえる人が、自らの幸福のために、己の状態とタイミングに合わせて下等な快楽を選んだにすぎず、むしろ味わう種類の快楽を変えることによって、上手に苦悩を避けつつ幸福を追求することができるのである。ミルが、「そもそも幸福は達成できないから、生活や行為の合理的目標にならない」という功利主義の批判に対して、「功利は幸福の追求ばかりでなく、不幸の防止や緩和も含んでいる」(ミル,早坂訳,p473)と述べているように、愚か者に比べて苦悩を受けやすい高尚な人物にとって、質こそ劣るが、簡単で楽に喜びを得られる低級な快楽は、ある種の救済的快楽なのである。重ね重ねになるが、それは決しての弱さや気の迷いといった誤った判断ではなく、発達した感受性と精神を持つからこそできる快楽の選択だ。基本的な幸福は今まで述べたような基準で間違いないが、望ましい幸福は人によって、状況によって、その時によって変わる。「適材適所」という言葉があるが、こちらはまさに快楽の適材適所である。

2.2功利主義と自由論
功利主義は社会全体の幸福の総和を基準にしているが、それゆえ個々の存在価値を尊重していないという意見がある。例えば、一般市民100人よりも、一国の大統領1人の方価値があるという具合だ。(あらかじめ断っておくが、もちろんこの大統領は能力があり、悪政を敷いていないという前提で考えている。)なぜなら、社会全体に目を広げてみたときに、大統領一人を失うことで、国の動きに影響が出るし、すなわち何万、何億の国民が「被害」をこうむることになるのに対し、一般市民100人を失っても結局影響が出るのはその周辺の家族や友人、会社の組織などに限られる。もちろん一般市民も大切な存在で、決してぞんざいには扱えないのだが、功利主義の考えに従うとやはり個の価値に差が出る結果になる。このように、社会全体を考えた結果、個人が尊重されなくても「正しい」と言わざるを得ないのだ。
1人が奴隷になり5人が優雅に暮らす場合の方が、6人が平等な立場で暮らす場合よりも幸福の総和が大きいことも十分考えられる。だとしたらなぜ奴隷は正しくないと言えるだろうか。我々の直観に反するこのような問題について、日本の哲学者の加藤は、「功利主義はすべての社会的価値や権利を生み出す第一原理なのではなくて、それらを吟味する一つの尺度にすぎないということが判明する。」(加藤,p66,1997)と述べていて、功利主義が単一原則になることはできないと主張する。もし功利主義を単一原則としていたら、個人が被る害を無視してひたすら全体の幸福を求めることが目的になる。これの何が問題かと言うと、たとえ個々の自由が阻害されても、それが「正しい社会」になり得てしまうという点だ。つまり、奴隷がいても社会の幸福度さえ高まればそれはよいことになってしまい、幸福を追求するためには個人の自由を尊重し、のびのびと個性が発揮できる環境にすべきであるという原則と矛盾する。

2.3規則功利主義
では、この矛盾を解決する方法はあるのだろうか。そこで挙げられるのが規則功利主義という考えである。今まで見てきたのは、功利主義の中でも行為の結果によって評価する行為功利主義であるが、これから述べる規則功利主義は、評価基準を個々の行為ではなく、行為の集合や行為の規則で判断する。上の例に当てはめると、「社会の幸福のためなら、奴隷制度を認めてもよい」という規則になるが、これは認められないだろう。もしこれをよしとすると、人々は、自分がいつ奴隷になるか分からない社会で過ごすことになり、常時かなりの不安と隣り合わせでいなければならない。結果的に人々の幸福の総和は小さくなるため、奴隷制度は正しくないと言えるのである。
一見功利主義の問題点が解決されたように思えるが、規則功利主義にも批判の余地がある。オーストラリアの哲学者スマートによるとそれは、①規則崇拝に陥る。②規則功利主義が行為功利主義に奇襲されてしまう。以上の2点である。規則崇拝というのは、そうすることが最も有益でない場合でも、規則を順守することに固執してしまう可能性が高まるというもので、例えば「嘘をついてはいけない」という規則があると、明らかに嘘をついた方が円滑に、かつ皆が穏やかに過ごせる場合であっても、「嘘も方便」は通用しなくなってしまう。では、嘘をついてよい例外を認めたらうまくいくのか。「友人を助けるためなら嘘をついてよい」「コミュニケーションを円滑にする目的なら嘘をついてよい」など、確かに状況によっては嘘がプラスに働くことも多々ある。しかしこのように例外を作り続けると、最終的に条件がとめどなく増加して行為功利主義と何も変わらなくなってしまうのである。規則功利主義に関してまだ別の問題が挙げられる。上記の奴隷制度の可否のような分かりやすい善悪であれば、一定の教育を受けた大人の意見はほぼ一致するので規則を作ることが可能だ。しかし、現在でもしばしば議論されるテーマである人工授精やクローンなどの問題では、優秀な大人でさえも賛否の意見が分かれている。急速な科学技術の発達に伴って、我々はこれからも考えたこともないような道徳的議論に突き当たると予測できる。この場合、どちらか一方の立場が多少優勢であっても、アメリカの哲学者ブラント(Brandt,1967)が提唱した、道徳基準が社会で通用するための次の条件に当てはまらないだろう。それはすなわち、
① その社会の大多数の成人がその道徳原理に賛成、もしくはその基準を構成するような道徳的意見を持っている。
② 特定の原則がある社会の道徳基準に属するのは、それらがそういうものとして認知される場合。つまり約90パーセントの大人が正しく反応するとき。
という2つの条件である。つまり大人の大多数が賛成していて、賛否を問われればほとんどの人がまともな回答をする場合のみにおいて、道徳基準が通用するのである。したがって、上記の例のような意見がかれがちな問題に関しては道徳基準を作ることが非常に困難である。もし仮に90パーセント以上の大人が同じ立場に立ったとしても、次々と新たな議論が出てくることは疑う余地がなく、その度に新たな道徳基準を作らなければならないので、規則功利主義は対応力に欠ける理論であると言えるだろう 
また、上の条件での「大人」すなわち、一般的な判断力のある成人をどのように判定するかという点も議論の余地がある。もしも社会を構成する人々の90パーセントが賛成する意見があったとしても、その90パーセントが全員狂人だったらどうするのか。それは決して認めてはいけない意見だが、そのためには正常な判断ができる人物とそうでない人物を区別しなくてはならない。一つの回答としては、それよって社会全体が不利益をこうむることなく、少なくとも過半数以上の人が恩恵を受けるような判断ができる人物は、「大人」として必要な判断力を持っているといってよいだろう。つまり自分の利益のみならず、周りの人々も損をしない、もしくは恩恵を受けられる行いができる者である。警察官や教師を例に出すと、彼らは悪人の取り締まり、違法行為の摘発、または未成熟な子供に教育を与える、といった方法で社会全体の利益に貢献している。逆に言うと、成熟した能力を持つ人物にしかこれらの職業は務まらない。

2.4選好功利主義と自由意思
 また別の角度から功利主義の問題点を挙げることができる。社会全体の幸福の総和を大きくすることが(古典的)功利主義の目的であるが、本当にそれだけが目的でよいのだろうかと考えざるを得ない反論がある。「快楽機械」という、脳に繋いでおくだけでほかでは得られないほどの快感を生み出す装置があるとすると、快楽主義的功利主義の立場では、この機械をすべての人々が使うことが、社会全体の幸福を最大限に増大させる正しい行為という結論に達する。しかしこれはあまりにも我々の直観に反するし、果たして実際に機械に繋がれることを望む人はどれほどいるのだろうか。そんな機械はありえないし、現実的でないと反論する人がいるが、それは全く違う。科学が発達した現代ではVR(Virtual Reality)を気軽に体験できるようになり、装置を付けるだけで、ジェットコースターに乗ったり、ゾンビが襲って来たりという経験ができるようになっている。このまま発達し続ければ何が現実で何がヴァーチャルか区別できないところまで進むことは十分考えられる。もしかしたら今我々が現実だと思っているものも、感覚を伴うレベルにまで高度に発達したゲームの世界かもしれない。それは誰にも分からないことであるが、とにかく快楽機械もただの空論ではないことは分かってもらえるだろう。大きな快楽を生み出すにも関わらず、なぜこの機械に繋がれることは受け入れがたいのだろうか。
 それは我々の自由意思に大きな関係があるように思える。たとえある目的が達成できなかったとしても、「~したい」という気持ちに従って行動すること自体が幸福を生み出し、人生を価値あるものにする。これについて「選好功利主義」が、うまくこの立場を表わしている。これはつまり「選好」の文字通り各々の好みや欲求をベースにし、どれほどその選好を満たすかを基準にした理論である。これに基づくと、機械に繋がれて一生を過ごすことを望まないのであれば、いくら快楽を得られるとしてもよいことだとは言えない。また、成熟した大人が持っている自立心も選好功利主義をサポートする理由の一つではないだろうか。つまり、人間には自分で物事を決定し、必ずいい結果になるとは限らない場合でさえも、自らの責任で物事を選びたいという根本的な欲求がある。他人に指図された行動をとれば幸福が待っていると分かっていても、幸福になれるか予測できないが自分の意思で生きていける道を選ぶのではないだろうか。それどころか、自分の行動を他人に決められるということは個としての存在価値が低下することにも繋がる。正しい判断能力のない子供だったら、親に行動を導いてもらわないといけないが、きちんと教育を受けた大人であれば、自分で自分のやりたいことや欲することを決める行為が、社会の中で個人としての存在を証明する材料になる。なぜなら、自分の意思は他人が持つことのできない完全にオリジナルで、代替不可能なものであり、たとえ他人と同じ行為をしているとしても、その動機が異なれば行為自体も固有なものになるからだ。ミルの主張する古典的功利主義からしたら個人の動機は問題ではなく、結果的にどれほどの快楽を生み出したかが重要なので、個人の意思なんて関係ないと言われるかもしれないが、我々の直観をはみ出さないためにもやはり個人の意思は尊重されるべきである。

2.5愚行権をどこまで認めるべきか
自由を認めると、他人に危害を加えない限り、周りから見てどんなに馬鹿なことをやっていても止める義務はない。理由は、ミルの言うように、「正しい認識が正しい判断を生むという主知主義的な前提」(加藤, p183)と「愚行件を含む個性と自発性の尊重という非合理主義の論点」(加藤,p183)において自己決定を正当なものにしているためである。さらに「批判的吟味・自由競争によってはじめて真理に到達する」という経験主義的合理主義の立場によるものもある。また、他人による干渉を当然としてしまうと、それが社会全体の常識となった時に、自由を認めたときの害悪よりもより大きな害悪を生むという。自由主義の原則は現在の道徳的観念ではかなり現実的なものであり、さまざまな倫理的問題のベースにすることで、明らかに誤った解答は出てこないだろうし、解決に近づく結果が得られるだろう。
しかし最近では、自由主義に対する共同体主義からの批判が上がっている。共同体主義とは、人間をアトム的な個体と見なしている自由主義に対して、人間はいつもどこかの共同体に所属しているので、社会的なものや共同体をベースにしたものに価値をおく立場である。アメリカの哲学者、サンデルは、「個人には、家族、共同体、社会関係が刻印されており、『負荷のない自己』(the unencumbered self)というアトミズムの個人観は幻影にすぎない」(加藤,pp185-186)という主旨で自由主義と違った意見を持っている。確かに我々は、家族や会社、宗教など何かしらの共同体に属していて、その中での価値観を大切にしながら生きているが、この共同体が個人よりも価値を持ち重要視すべきものだとは考えられない。なぜなら、共同体に属している個人が最大限に快楽を追求でき、共同体に属していることによって自由の抑制されることがない状態を作ることが、社会の幸福につながるのであって、むしろ共同体に属する個人の自由や個性も最大限伸ばしていける社会が理想なのである。共同体主義者の主張のように、社会的なものや共同体を重視するのは、水蒸気をないがしろにして雲の存在を語るようなもので、非常にナンセンスである。
あくまでも共同体主義は自由主義に対する補足であって、反論にはなりえないのである。
しかし、共同体主義者の一人であるマッキンタイヤーは、「三世紀にわたる道徳哲学の努力にもかかわらず、依然として、自由主義的個人主義には首尾一貫した合理的な弁明がない。他方、アリストテレス的伝統に従えば、道徳的・社会的退位度とコミットメントに合理性を回復することができる。」(加藤,p188)として、ミルが主張するような、自由な社会は文化の質を向上させ、自然淘汰的に真理が残っていくという思想を否定する。この意見に加藤は賛成し「『他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい』という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている。マッキンタイヤーのこの主張は正しい。〔中略〕愚行権を認めることが、人生を一つの愚行に終わらせる危険をはらむことが、見えてきている。」(加藤,p188)と述べているが、これはどうも素直には受け入れがたい。文化を退廃と混迷へ導いているのは、自由ではなくて無秩序である。秩序が保たれた上での自由は、社会に刺激を与え、個性を開花させるとともに、全体を発展させるためにも必要である。
また、愚行権を認めると、人生が一つの愚行に終わる可能性があると言うが、それはあくまで第三者的目線で判断したものにすぎない。タバコを大量に吸ったり、命がけで綱渡りをしたり、テトリスに大半の時間を費やしたり、これらの行為は万人が目指すべき行動とは言えないが、本人たちにとっては至高の時間であるかもしれない。言うまでもなく、「愚行権」という言葉には、他人目線から見た基準があり、確かにその基準からしたら人生全体が愚行になる可能性がある。しかしそれを防ぐために、万人が従わなければいけないリストを作るなどすれば、人間はただ愚行を犯さないだけの機械と変わりなくなってしまう。むしろ社会全体で、人々が愚行よりも興味を持つものを作って、それを選べるような環境を整えることが必要である。よって、他人目線での「人生を愚行に終わらせる危険性」をある程度受け入れつつ、価値ある行動を人々が選び取れる社会基盤を目指すことが必要なのである。とは言いつつも、共同体主義の主張の中にも大切なことはある。それは「徳の倫理学」と呼ばれるものであるが、詳しくはトロリー問題と絡めて次の章で述べていく。
 
2.6トロリー問題
有名な議論にトロリー問題というものがある。簡単に言うと、誰かを助けるために他の人を犠牲にすることは許されるか、といった問題だ。具体的には、ブレーキの利かないトロッコが猛スピードで進んでいる。線路の先には5人の人々が縛り付けられていて、このまま進めば彼らは死んでしまう。このとき私はちょうど線路の分岐点にいて、レバーを下してトロッコの進路を変えることができる。しかし、不運なことにもう一方の進路には1人の人が縛り付けられているのだ。私がレバーを下せば5人の命は助かり1人だけが犠牲になるが、何もしなければ5人が死んでしまう。この状況での正しい行為とはなんだろうか。古典哲学的に考えると、その1人で縛られている人物が、他の5人以上の影響力をもってして社会を幸福に導くような人ではない限り、5人の方を助けるのが正しい行為だろう。
今回はこの命を数で捉える問題を追及して論じることはしないが、徳の倫理学に関連した考え方には触れておきたい。それは、倫理学の原点でもあるアリストテレスにまでさかのぼったもので、行為の結果や道徳的規範よりも、行為者の性格に焦点を当てるべきだというものである。これは選好功利主義にも似た部分があるが、より行為者の内面を見た理論だと思う。トロッコの例で言うと、いつも事なかれ主義で他人のことにいちいち首を突っ込まない人が、自らレバーを引いて1人を犠牲にする選択をするだろうか。逆に人一倍正義感の強い人物で、常に多くの人の力になりたいと思っている人だったらレバーを引く傾向にあるのではないだろうか。このように、全く同じ状況でも行為者の性格の違いで、とるであろう行動も変わってくる。徳の倫理学ではこのような違いに着目するので、その人物の性格の違いを行為の違いとして認めることができる。社会を構成する人々の性格は多種多様である。同じ性格は二つとしてないことは誰もが納得するはずだが、それを分かっていながら、功利主義の示す行為を自分の性格に反してまで行うことを誠実な行いというのは少々強引だ。社会の幸福を目指すなら、個人の特徴や長所、短所を統一しようとするのではなく、違いを認めてそれぞれが個性を発揮できる環境を目指していかなければならない。
 また、その人物の能力次第でもとるべき行動が変わるだろう。先ほどと同じように5人が縛り付けられた線路と1人が縛り付けられた線路があるとしよう。トロッコは1人の方に進んでいて、同じように線路の分岐点にある人物が立っている。違うのは、この人物が適切な位置までレバーを下すとトロッコは止まって、6人全員が助かるが、力加減を間違えてレバーを下げすぎると、分かれている線路は円を描くように繋がって、6人全員が犠牲になってしまう。ここでレバーの前にいる人物を2パターン挙げる。両者とも性格は全く同じで、どうにかトロッコを止めたいと思っている。一方は、体のコントロールに優れていて、力加減も上手にできるアスリートだが、もう一方は力こそあるが、加減が苦手で、よく力を入れすぎてしまう人物だとしよう。このとき、2人のとるべき行動は違うのではないだろうか。これは決して能力に優劣をつけているわけではない。むしろ、このようなある意味どちらを選んでも納得できないケースでは、どちらか一方が間違っているということではなく、両方の選択肢を認めた上で、あとは行為者の性格や能力を考慮に入れた行いを求めるのが現実的な回答に思える。

2.7変化する正義
 これまで見てきた論や例は、すべて我々が生きている世界を基準に考えているので説明が可能な部分がある。すなわち、この大きな銀河系の中の地球という星での大まかな共通認識や常識があるから、ある道徳観念が一般に受け入れられたり、批判し合ったりすることができる。言い換えると、全く別の星から来た宇宙人に対して、道徳的な観念を共有し、彼らがもし暴挙を働いたらそれを非難するのに正当な理由はないのではないだろうか。仮に宇宙人が地球に侵攻してきて街を破壊したとしても、我々の価値観を彼らに押し付けて、「それは悪いことだからやめてくれ。」という説得が通じる保証はどこにもない。彼らの世界では他の星に行って街を破壊することで、自分たちのコミュニティが繁栄する仕組みになっている可能性はある。
 もしも宇宙人が我々よりもはるかに高い能力や、質の高い文化を持っていて、地球の文化レベルを上げるために侵略しているのだとしたら、それは認めるべきだろうか。強制的に文化を向上させることは社会を幸福に導くか。人間社会に置き換えると現実的な問題が浮かびあがる。ミルは、地域は進んだ文化を持つ地域が、遅れた文化を持つ地域によって、ある種植民地にすることを認めている。質の高い文化が、一定のレベルに達していない文化の質を強制的に向上させることは義務であるという。すでに、他人に危害を加えない限り自分の好きなことができる社会をつくるのが理想だと述べたが、それには、判断力のある大人に限り、という条件があった。この場合の遅れた文化はいわゆる大人の文化ではなく、まだ判断力が乏しいので、外部による修正が必要だという考えだ。進んだ文化に触れたことのない遅れた文化の側からしたら、自分たちが遅れているのかどうか、なぜ改善が必要かさえ分からないかもしれない。今ある自分たちの文化を守るために抵抗することも考えられる。しかし他方からしたら、多少無理やりにでも改善を推し進めた方が後の幸福になることは分かっている。この場合、双方とも悪意があって行動しているのではなく、きちんと自分たちの正義感に基づいた態度をとっている。つまり、ある場所で正しいとされる行為は、異なる立場からは悪に映っている可能性がある。同じ人間であれば通約可能であるので、話し合いやジェスチャーなどのコミュニケーションで相互に理解することは不可能ではないが、全く共通点の見当たらない宇宙人であったら通約不可能である。ではどうすればよいか。加藤は「通約不可能な相互に独立な観念体系が共存できるなら、相互不干渉の原則を守ればよい。〔中略〕しかし加害者と被害者の関係がありうるなら、相対主義は無意味である。共通の価値を用いなければならない。」(加藤, p229~p230)と述べている。人間社会が一つにまとまることへの課題もまだ山積みであるが、いつか文化の違いや利害関係を超えて一つの社会にまとまったとき、そのときには存在が明らかになっているかもしれない宇宙人とも相互に理解できる社会に期待している。
外部からの侵略というと我々の感覚ではひどいことだと感じるが、人間も動物や植物を食べて生きているので、実は近い行動をしているのかもしれない。食料を確保するためには動物を殺すのはやむを得ないが、くじらを食べることが痛烈に批判される一方、ありあまるほどの豚肉が市場に出回っているのはどういうことだろうか。絶滅寸前だったり、希少価値の高かったりする動物の存在は、自然と牛や豚の存在よりも大切にされている。多くの種を地球上に残すことはすばらしいが、これも人間のエゴとも思える。しかし、このエゴは正しいものだろう。なぜなら、根本的には動物と我々は通約不可能なケースが多いので、他の存在に危害を加えない限り、ひとまずその存在を残しておくことが未来への貢献なのである。
希少な動物を大切にするという認識があるなら、「社会全体の幸福」の「社会」に動物が含まれないのはおかしいという意見がある。動物の幸福度をもっと上げるよう努力すれば、社会全体の利益につながり功利主義的には正しい方向に向かうはずだという。動物は100万種も存在するという調査があるが、確かにこれだけの動物が快楽を味わうことができたら社会全体の幸福度は跳ね上がるだろう。しかし、我々が目指す社会の幸福の範囲に動物を入れることは難しい。あたりまえだが言葉は通じないし、喜怒哀楽も分からない。その動物が実際に快楽を感じているかどうか計る手段がないのである。植物はなおさらである。葉っぱをちぎったり踏みつぶりたりすることは、なんとなくかわいそうだし我々も気持ちの良い行いではないので避けるがちだが、実際植物は幸福も不幸も感じていない。かわいそう、という人間の感情がそう行動づけるのである。
ただ、例外もある。チンパンジーやゴリラは非常に人間に近いので、飼育員さんなどは感情が分かっているという。しぐさや表情も人間に通じる部分があり、幸福や不幸を感じているのは明らかである。しかし、やはり「社会の幸福」に含めて考えるのは難しいように思う。それは人間とは違うコミュニティに属しているため、共通の社会として基準を設けることができないからである。共存はしているが、相互に深くかかわり合って生きているとは言い難い。現時点では片方の行いでもう片方の幸福度に何か影響を与えることはほぼないが、いつか人間と動物が今後相互に利益をもたらすことができる社会になれば、同じ社会の一員として認められる日が来るかもしれない。

第三章 結論
 ここまでさまざまな角度から、ミルの思想を軸にして論を展開してきた。一見うまくできている理論でもさまざまな問題点があり、多方面から批判されていることがわかった。功利主義の考え方は有用なものであるが、まだ完璧とは言えない。幸福の総和だけを追求する古典的な功利主義では結果だけに注目することになり、個人個人の存在が軽視されてしまうし、規則功利主義においても規則崇拝に陥る危険性や、どこまで細かく規則を作るのかという問題が残っている。選好功利主義はそれらをサポートし、補足として働くだろう。そして功利主義のベースとしても重要な意味を持つ自由論も、きちんと見つめなおさなければならない。他人に危害を加えない限り自由は保障されるが、それに伴って愚行権が認められる結果になる。人生を一つの愚行に終わらせないように自分の価値基準をしっかり持つべきだろう。
 今回触れられなかったことも多く残ってしまった。功利主義における幸福の計算手段や、完全義務と不完全義務という2つの種類、自由主義の原則である「私のことに関して自由に決定できる。」という「私」はどこまで含まれるか、といったような問題である。本論文では比較的広いトピックを浅く扱ったので、一つ一つの追求は十分にはできなかった。まだ多くの課題が残る功利主義、自由論のテーマであるが、今後はそれぞれの立場を深く掘り下げること、またそれぞれに対する他の批判、または賛成意見もより多く見ていくことを課題としてあげられる。今後はその点を意識して研究を進められるよう努めていきたい。

 


参考文献)
[1]世界の名著38 ベンサム/J.S.ミル, 関嘉彦編, 早坂忠, 伊原吉之助ほか訳, 中央公論社,1967年
[2]デイヴィッド・エドモンズ, 太った男を殺しますか?, 鬼澤忍訳, 太田出版, 2015年
[3]加藤尚武, 現代倫理学入門, 講談社, 1997年
[4]W.L.デイヴィッドスン, イギリス政治思想Ⅲ, 堀豊彦訳, 岩波書店, 1953年
[5]坂井明宏・柏葉武秀,『現代倫理学』,ナカニシヤ出版,2007年
[6]田中朋弘,『文脈としての規範倫理学』,ナカニシヤ出版,2012年
[7]ミル『自由論』を箇条書きで要約する,
https://www.philosophyguides.org/compact/mill-on-liberty-in-itemized-form/